ザ・バージルは、1989年に誕生したいわゆるアマチュアバンドなんだけども、その頃の僕はある中古レコード店(まだCD店とは言わなかった)で働いていて、毎日毎日“しかたなく”いろいろな音楽を聴いていた時期で、その前の前まではプロのミュージシャンになってテレビに出て、東京に住んで、ロンドンでレコーディングして、全国ツアーをして、その合間に新曲を作って、お金はそこそこだけど、毛皮のコートを着て、自分じゃ運転しない車に乗って移動をすることを目標に生きていた。その前あたりから、メジャーなんて田舎もんが騙されちゃって、おいしいことばっかり言われて、結局休みなしで狭い車に押し込まれてツアーやプロモーションで小さなレコード屋を回って、その時はキャーキャー言われるけど、売れたのは会社のおかげだって言われて、印税は入らないし、勝手にメンバーを替えられて、バンド内はギスギスしちゃって年末にカウントダウンライブに無理矢理ブッキングされて、その翌日長島温泉で歌ってるみたいなことだろうと、うすうす感づいていた。
 そんなときインディーズのブームが来て、東京や大阪で、それこそ化粧アングラ劇団みたいなバンドがうじょうじょ出てきた。東京ですごいってふれこみの有頂天やラフィン・ノーズ、ウイラードを僕は正直ちっともいいと思わなかった。偽インディーズっていうか、結局売れたい人たちっていう感じがして。なんか新宿のやり手のレコード屋がぜーんぶウラで仕切ってるみたいな感じだった。第一不細工でかっこわるいんだもん。歌は下手だし。お客にも勧めたことなかった。でも欲しいって言う人は多くて、ウイラードなんてバカみたいに売れたけど。
 その頃僕は生涯で2番目の自分のバンドを売り出したくて、勤め先のレコード店のオーナーをプロデューサーとして口説き、地元の録音スタジオ(個人所有)でオリジナルを数曲録音した。いわゆる自主制作盤(CDでなく当時はレコード盤)をプレスして、つながりのあるレコード店に配給しようと目論んでいた。僕は、出したレコードがじわじわ話題になり、ラジオで流され、出演オファーが来るようになって、FM東京に呼ばれて生演奏する、メジャーレコード会社から交渉を受けるが、僕は独自でUKのSTIFFレコードに曲を売り込んでニック・ロウに気に入られ、STIFF初の日本人アーティストとしてUKでシングルリリースという新たな目標を設定していた。大真面目だった。
 僕のオリジナル曲は、いろいろあってミックスダウンまでしてお蔵入りした。
 それからしばらくして、インディーズブームもメジャーの参入で訳がわからなくなった。ティーンエイジャーの女の子がキャーキャー言ってたのは、ブルーハーツやジュン・スカイ・ウォーカーズだったし、美形はBUCK-TICK、後発組では、なんと言ってもX(エックス)がすごかった。インディーの1stアルバムは、それこそ入れても入れても止めどなく売れた。渋るオーナーを横目に「50枚お願いします。」と仕入れ先に電話したのを今でも覚えている。
 87年、インディーズはメジャーへのステップどころか、完全に一部のやり手レコード屋のビジネスになっていた。
 そんな頃に僕は偶然同じ歳のベースプレイヤーと出会った。最初はレコード屋店長とお客としてだったが、今思えば彼が最初に店のドアを開けたときから、「なんか話をしなければ・・・」と思っていた気がする。細身長身でダークグレイのスーツを着た彼はたびたび店に顔を出した。会社の先輩が店の常連だということがわかり、一気に話が膨らんだ。聞けば同じ歳で同郷、バンドをやっていたと言う。
「じゃ、榎本とか知ってる?」
「榎本は中学で同級で、高校のときバンドメンバーだった。」
「えーっ?!オレ、高2のとき榎本とバンド組んでたよ。」
「あ、それって、ジェフ・ベックとかやってたバンド?」
「そうそう、ほかにイーグルスとかキッスとか。」
「じゃ、渡辺くんとかといっしょ?」
「そうそう。あいつがオレを誘った。」
「渡辺くんは榎本のバンドでいっしょにやったことあるよ。キーボードでしょ?」
「えーっ!じゃ、かぶってるじゃん。」
「練習場所は?」
「榎本んち。」
「あ、オレ一回行ったことある。他のバンドが練習してた。」
「それ、たぶん僕らだと思うよ。」
 当時僕は自分のバンドを解散させていた。ギターがプロを目指すなら抜けたいと言ったことや、レコードをリリースできなかったゴタゴタ。すごい評価が待っていたかも知れないのに、世の中に自分の曲を発表できないジレンマ。プロデューサーに対する不信感や怒り。インディーじゃダメだという失望。海外へ行けない自分の度胸のなさ。だから全く新しくしたかった。もう誰の評価も要らない。好きな音を好きなように出そう。そう思っていた。ニック・ロウはあきらめてなかったけど。
 しばらくして僕は前のオリジナルを捨て、新しい曲を作って「榎本でかぶっているベースプレイヤーのとーる」を自分のバンドに誘った。
 バンド名をCampfireと決めた。小学生頃「遠き山に日は落ちて」をみんなで歌った。19才の頃逗子の海で廃材を燃やし酔いつぶれた。23才になって、近所の海でめちゃくちゃに騒いだ後にたき火をしながら夜が明けた。精霊流し、お盆の迎え火、送り火。浄化?昇華?火を燃やすことで自分が再生する気がした。
 Campfireは3人で始動した。最初のスタジオ入りの休憩のとき、僕はおもいっきり焦っていた。はっきりと冷や汗をかいていた。
 当たり前だが、自分のバンドを組んでからは、練習でもミーティングでもすべて僕が主導権を握っていた。それは、根拠はないが自分に自信と志があり、この辺のバンドとは違う、東京でも通用するバンドにするという自負や目的があったからで、自分はコンポーザーであり、指揮者だと、もっと言えば教祖だと思いこんでいたからだ。それが思い上がりだったということに、たったの1時間で気がついてしまった。
「やばいな・・・。」
それがその日の感想。日記にも書いてある。
 とーるのベースは、僕の作ったコードを縦横無尽に行き来した。自分のギターの貧弱さを後悔した。同い年。高校2年からバンドをやってきた。とーるも同じ時期に同じやつとバンドを組んでいる。こんなに違うのはどーして?オレは何をやってたんだ?こいつはどこを通ってきたんだ?なんでこんなとこで会社員やってるの?
後悔、後悔、後悔。やばい、やばい、やばい、やばい、やばい、やばい。
 後の1時間は「逃げ出したい。」「早く帰ってギターの練習をしたい。」で終わった。
 今だから話そう。
これが、本当のザ・バージルの始まり。

 僕は当時地元ではちょっと有名だったザ・ラバーソウルというビートルズのコピーバンドに在籍していた。僕はジョン役で、毎週金曜日に市内のライブハウスで3ステージをこなしていた。いわゆる“箱バン”で、毎月決まった額のギャラを受け取っていた。輸入・中古レコード屋の店長と箱バンを掛け持ちしている生活だった。
 毎週ビートルズナンバーを30曲近く演奏し歌うことは、僕にとっての疑似プロ体験だった。限りなくプロに近いアマチュアだった。ビートルズを聴きに来る客を相手に、いかにビートルズを見せるか。それこそ歌い方はもちろん、足の開き方からギターの構え方、歌の途中でふっと横を向くジョン・レノンを研究し真似た。それがお金をもらうバンドのテクニックであり、義務だと思った。
 ザ・ラバーソウルは、かなり人気のあるバンドで、レギュラー出演の他にもいわゆる“営業”も多く、実入りは結構なものだった。そのギャラでギターを買ったり、レコードを買ったりした。音楽で稼いだ金は音楽に使うと息巻いていた。
 ザ・ラバーソウルには、僕よりも年下のヒロナオというポール役のベーシストがいた。僕にとっては「ああ、あのうまい高校生か」という印象だった。というのも、ヒロナオは僕らが昔やっていたザ・シルバー・ビートルズという、ザ・ラバーソウルの前身バンドの熱心なファンで、それが高じて当時高校生でありながらビートルズのコピーバンドを作ったヤツだったのだ。その演奏能力と、着眼点(有名曲じゃないけど、おいしいビートルズナンバーを取り上げる能力)はぬきんでていた。ヒロナオたちのバンドを初めて見たとき、正直「若くてやばいのが出てきちゃったな。」と感じたのを覚えている。とにかくその頃からヒロナオはちょっと“マークすべき男”だった。
 ザ・ラバーソウルは箱バンとして安定していた。毎週レコード屋のレジを締めて、バンドの顔に切り替え、ぎりぎりで楽屋入り。あつらえのユニフォームに着替えて3ステージ。終わったらファンの女の子と飲みに行く。プチバブリーなバンドライフが続いた。
 毎週30曲近くを歌うことで、僕の歌声は確実に大きくなった。また声の出し方、マイキングなどのボーカルテクニックをつかんで悦に入っていた。人生で一番たくさん歌う日々。自信にあふれていた。
 朝まで飲んで騒いで帰った後、ぐるぐるしている頭の中で、昔のオリジナル曲が浮かぶ。ずいぶん前に作ったくだらない恋の歌だ。寝て起きるとその歌がまだ鳴っている。歯を磨いても鳴っている。その時ふと今の自分の声なら、もっとどーんと響くんじゃないか。そんな考えが頭を支配し始めた。一度封印してしまったオリジナル曲を今のこの状態で歌ったら・・・・。
 とーると知り合ったのはそんな状態のときでもあった。
 Campfireは1988年の2月にレコーディングをする。ライブの前にレコーディングしてライブのときにレコード、もしくはテープを配ろうというわけだ。インディーズの連中が当時盛んに行っていたやり方だ。
 町はずれの楽器屋の地下室にあるレコーディングスタジオは、夜レッスンが終わると格安で借りることができた。夜の9時から準備に入ったバンドの中で僕は、地に足が着かないフワフワした状態だった。理由はひとつ。ギターの演奏に自信がなかったからだ。初めて音を出したときから感じていたコンプレックスを引きずったまま、レコーディングの日が来てしまった。
もちろんメンバーには話していない。レコーディングは普通リズムトラックから録る。ベースとドラムを録音してその後にギター、歌、その他と録っていく。サウンドチェックが進む間僕は持ち込んだバーボンウイスキーを飲み始めていた。何かに使うガムテープがないとエンジニアが言い、「オレの番はまだだし、オレが買ってくるよ。」とスタジオの外に出た。2月最終日の夜中は寒い。でもあのスタジオにいることは苦痛だった。最寄りのコンビニを目指してとぼとぼ歩く。そのコンビニにはガムテープは売っていなかった。酔いが回り始めた頭を巡らす。勤めていた店にはある。そこまで行くには車しかない。なんとかなるだろう。駐車場に戻り、自分の車を動かした。駅近くの店までは10分くらいか。深夜12時に近い。目の前をパトカーが通った。僕はいろいろとビビってしまっていた。ギターのこと、酔っぱらい運転、土曜日、検問・・・。不安が重なって車を走らせるのを止めてしまった。しばらく考え、意を決して店まで行き、ガムテープを持ってスタジオに帰った。1時間は経っていた。とーるが「プレッシャーに耐えられずに逃げたかと思った。」と冗談めかして言った。僕はさらに酒を飲んだ。
 びびりながら、ごまかしながらギターを弾き、2時を回った頃、やっとボーカル入れの時間になった。僕の声は飲み続けた酒と煙草でひどい状態になっていた。さんざんな状態でかろうじてOKを出し、明け方近くにレコーディングは終わった。
 僕は落ち込んだ。百戦錬磨のとーるがあんなひどいレコーディングを許すはずがない。年下のドラムの原と、エンジニアとして連れてきたキーボーディストの原の兄がどう思っているかすごく気になった。真剣にバンドの解散を考えた。その日僕は、ギターをずーっと弾いたが、気分は晴れなかった。
 88年の5月2日にCampfireは初めて人前で演奏した。 僕は3月に生まれて初めての海外旅行をしていた。行き先はインドとネパールで、ひどい下痢をしたり、熱が出たりという旅行だったが、初めて知った外国の空気は強烈だった。僕は一時だけの訪問者で、下痢だろうがふらふらだろうが、10日くらいでまた日本に帰り、レコード屋で働く。インド人は生まれたときから何をして生きるか決められている。カーストの最下級の人は、働きたくても、勉強したくても、できないのだ。ニューデリーの宝石屋で、若い主人にあごで使われていた床拭きのじいさんは、死ぬまで床を拭き続けるのだという。
 インドで買ったパジャとネパールで買った民族帽をかぶってステージに立った僕は、よくわからないが“なんとなく”無国籍な音を目指していたのだと思う。アジアの中の日本人が演る、欧米のロック。表現力はお粗末なものだったけど。
 僕は2年ほど前から名古屋でバンドのマネージメントを“趣味で”やっている江崎という男と知り合って、そいつと豊橋・名古屋で『BOY'S A GO GO』という若手バンドのパッケージライブイベントを企画して何回か開いていた。当時はネオGSのブームの終盤で、東京からネオマージービートバンドのザ・ストライクスもそのイベントによく参加した。そこに出ていたバンドにPLEASE PLEASEという3ピース(スリーピース・3人組のドラム、ベース、ギターという編成のバンドのこと)のバンドがいた。

 PLEASE PLEASEには、タイトででかい音を叩くドラムがいた。それが後にバージルに参加する大西で、その3Pバンドには、ライブで互いを威嚇するようなビシッとした緊張感があった。僕は単純にその緊張感に憧れ、3Pこそバンドのライブの原点と感じていた。
 でも、演奏に意識を向けることで、歌いたい歌が伝わらないもどかしさがあったことも確かだった。
 そこで僕は別の作戦に出た。もう一人のメンバーを探すことだ。ギターを入れて4人にすれば、音は厚くなり、コーラスも増える。これはある意味妥協案であり、逃げだったと思う。音が厚くなるなど言い訳にしか過ぎない。今思えば音の厚みをカバーできるギターテクニックがなかったのだ。
 1988年の夏に僕はザ・ラバーソウルのポール役ヒロナオにバンド参加の声をかける。当時のヒロナオはベースとして在籍していたオリジナルバンドが空中分解状態だった。彼は「ベースとしてなら参加してもいい。」と答えた。しかし僕はギターが欲しかった。とーる以外のベースプレイヤーは考えられない。割とすんなり引き下がった記憶がある。ヒロナオのベーステクニックはよくわかっていた。ビートルズのコピーバンドで、ポール・マッカートニー役をやるということがどれだけすごいことか。歌いながら、あのメロディックなベースラインをつまびくのだ。それを毎週こなしているヒロナオの実力を認めないわけにはいかない。こいつならメロディーを奏でるギターを弾くだろう。ギターとしては未知数だったヒロナオに声をかけたのは、そういう理由からだ。しかし、ベースがやりたいというなら仕方がない。あきらめるしかない。
 ヒロナオがその昔活動させていたビートルズバンドのジョージ・ハリスン役はKeizoという男で、ヒロナオは彼なら演るかも知れないと言った。ヒロナオにふられた僕はKeizoを口説いた。彼の良さは音に対する真面目さだった。もともと職人気質のKeizoは、感覚でギターフレーズを作るのでなく、音のバッティングまで考えてギターを弾く。ダイナミックさはないが、確実に使えるギタリストだった。
 1988年の9月に新生CAMPFIREはギターにKeizoを加えてライブデビューをする。音は厚くなり、僕はボーカルを押し出すことができるようになった。
 当時の豊橋には、対抗する二つのライブハウスがあり、地元のミュージシャンはそのどちらかに出ることが、地元のバンドシーンの中にいる証明のようなものだった。「がんばってオリジナル曲やってますよー。」みたいなことだ。前述したように僕は一方のライブハウスでビートルズの箱バンをやっていたが、もう一つのライブハウスのブッキング担当とバンド仲間だったこともあり、どちらにも出られる状況ができていた。江崎と組んだイベント“BOYS A GO GO”もその時に応じてどちらかで開催していた。でも僕は当時から地元の音楽シーンを斜めに見ていた。思えば高校生のときにオリジナルバンドを組んでライブハウスに出て以来、ライブハウスに憧れて、期待して、何度も裏切られてきたのだ。自主イベントを組んだのもそういう理由からだ。客層の近いバンドとの対バンなど、あった試しがなかった。ハードロックとフォーク弾き語りが混在するギグ。それでいてチケット販売のノルマは求められる。客が入らないとライブ後に説教される。みんな自腹を切ってチケットを売っていた。「どうせ自腹を切るんなら自分たちの組みたいバンドとジョイントしよう。」
そう考えていた。はっきり言えば、僕らの方がお客を見、ライブハウスに見切りをつけていたのだ。
 江崎という名古屋在住のブッキングマネージャーと付き合うことで、CAMPFIREは活動の場を広げられると考えていた。新生デビューライブの1週間後、僕らは名古屋のテレビ局が仕掛けた「ヘルシー・フェスティバル」というイベントに出演する。栄セントラルパークの野外ステージでオリジナル曲を15分ほど演奏した。たったこれだけのことだが、僕にとっては、豊橋を出て知らない人の前で演奏したことがとてもうれしかった。誰かに届いたかも知れない。勘違いでもそう思えるいい経験だった。
 1stTAPEの散々な出来を後悔していた僕は、2ndTAPEこそちゃんとしたものを出したいと夏の間にレコーディングを終えていた。『Autumn Jungle』と名付けた4曲入りのテープは、CAMPSのオリジナルとしては、生ギターのオーバーダビングを加えたり、コーラスを分厚くしたりと当時のUKエレアコバンドを意識したものに仕上がった。歌詞もアメリカ大統領を皮肉ったものや、インドにインスパイアされた曲など、当時の僕の世俗感が出ているものだ。ボーカルも気に入るまでやり直した。荒れてはいるが演奏に合っていると思う。
9月のライブで発表したテープが何本売れたのか記録はないが、当時とにかく安くテープを買えるところを探した覚えがある。もちろんダビングは自分でやり、ジャケットは当時付き合っていたMiyukiにデザインしてもらった。グリーン1色にしたのは、夏の草の匂いが好きだからだ。地元の印刷屋で印刷した。
 順調に走り出した4人のCAMPFIREだったが、思わぬアクシデントに見舞われる。ドラムの原がある理由で練習に参加できなくなった。さらにギターのKeizoが身体をこわしてバンドを脱退したのだ。すでに4人の音に未来を見ていた僕は困った末に、一度ふられたヒロナオに再びバンド参加を促す。ヒロナオの言葉を借りれば、Keizoを紹介した責任を感じて、ギターとしての参加を決めたという。
 ドラムはとーるが大西に声をかけた。PLEASE PLEASEが暗礁に乗り上げていた大西は、バンド活動を辞める覚悟だったが、とーるの誘いに何か魅力を感じたらしい。

”ミュージシャンズ・ミュージシャン”という言葉がある。ミュージシャンが認める、または尊敬するミュージシャンという意味だ。その意味でとーるはまさにそのものだった。僕は今でもこの言葉が大好きだ。昔読んだ雑誌で僕が当時好きだったザ・スミザリーンズというアメリカのローカルバンドが、メジャーデビューしたR.E.M.やロス・ロボスからミュージシャンズ・ミュージシャンとして認められていると書かれていたのを思い出す。
 そう、僕は周りのミュージシャンから尊敬されるミュージシャンになりたかったのだ。それが、まず第一の目標だった。それには、何かアクションを起こさなければならなかった。地元のライブハウスに毎月出ているロートル(ひからびた)のアマチュアバンドにだけはなりたくなかった。メジャーレーベルからデビューするとかいう夢はまだほんの数パーセント残ってはいたが、「シーンを作りたい」という気持ちは強かった。
 アセンズというアメリカテキサスの町がある。アセンズでは地元バンドの活動が盛んで、アメリカのマイナーレーベルもコンピレーションを出すほど注目していた。学生の主催するラジオステーションが中心になっているそのローカルでマイナーな動きに僕はとても魅力を感じていた。

 アセンズからはR.E.M.という個性的なバンドがデビューするのだが、当時のコンピレーションには、アメリカのバンドだけどイギリスか?80年代なんだけど60年代か?カントリーなんだけどパンクか?みたいなバンドばっかり入っていて、日本的なジャンル分けに仕事上ヘキエキしていた僕は、その節操のなさ、それでいて熱気が伝わるそのレコードに随分影響された。
 豊橋だってそういうシーンが起こせるんじゃない?そう真剣に思った。
 ものすごく狭い範囲の話で恐縮だけど、地元のバンドシーンでは、僕らはいわゆる外様世代だ。その昔、愛知大学軽音楽部を中心に動いていた地元ライブシーンは、隣町の豊川から出てきた僕らのような愛大系以外のバンドに浸食されていく。僕らより上の世代は、それこそ、60年代を実体験したようなディープな連中で、音楽と実生活がトリップしている感じがした。僕らはいわゆる新人類で、『冷めているフリをしているくせに熱い』というやっかいな世代だ。
 地元でも尊敬するミュージシャンはたくさんいた。僕が知っている範囲だけど、豊橋近辺の音楽シーンのレベルはとても高いと思う。すごいドラマーやギタリストが場末の箱で酔っぱらってめちゃくちゃぶっ飛んだ演奏をするのを何度も見たし、テクニックだけでいったらプロより上手いんじゃないかというセミ・プロとたくさん遭遇している。でもそれは僕が感じる“メジャーな音”じゃなかったことは確かだった。
 「何が違うんだろう?」ということを東京から来たザ・ストライクスやグレート・リッチーズでつかもうとしていた。
 その頃から僕は、豊橋でテクニック的に認められて、豊橋以外で売れるバンドを考え始めている。
 1989年の5月から9月にかけて再び3ピースに戻ったCAMPFIREはTHE BURZILと名乗る4人編成でのライブを10月に行う。ドラムに大西、ギターにヒロナオ、ベースはとーるというラインナップは、その後の僕の音楽活動にとってとても大きな礎となった。
 1989年から1990年にかけては、ザ・バージルにとっていろいろな音を模索する時期だった。大西は8ビート一辺倒で、16っぽい音ではとたんに苦手になった。ヒロナオはもともとギタリストではなかったので、僕の作るヘンなコード進行のオリジナル曲にリードを入れるのがたいへんだった。その頃僕が何を考えていたか・・・。
ザ・バージルは明らかに他とは違ったオリジナル曲をやっている。地元の音楽シーンにはない音だ。メンバーも地元だけでない。
これを世の人に知らしめるにはどうしたらいいか。いや、オレたちは全国的に見てどうなのか。そういうことが試してみたくなった。
 コンテストに応募したのだ。
 どこが主催だったか全く覚えていないが、当時では思いっきりヒップだった名古屋パルコ・クアトロで行われたアマチュアバンドコンテストにザ・バージルはエントリーした。89年11月のことだ。
 提出する応募書類で年齢をごまかした。28才じゃデビューできないだろうと。今でもそうだが、25を過ぎればデビューは難しい。デビューまでのルートが存在しない。日本のメジャーは、若くて才能のあるやつらを搾取したがっているのだ。演奏後にリーダーだけステージに残れといわれ、そこで審査員による総評と質疑応答があった。「英語の歌詞が混ざるが意図は何か」「メロディー優先で曲を作るので、いい加減な英語歌詞でもそのまま演奏している」「どのあたりの層に聴かせた
い歌か」「子どもから年寄りまで、日本人から外人まで」というやりとりの後、ある審査員が「何か思想的な感じが見えるが、歌詞が僕には伝わらない。何を言いたいのかわからない。」と言った。 
 僕はオリジナル曲などというのは、作った本人にしか本当の意図はわからないもので、ものすごく私的でいいと思っている。その時、その年齢、その生活、その知識で何を思っているのかなんて、他人がとやかく言える範疇のものはない。そうやって世の中の楽曲はできあがっているはずだ。モーツァルトやベートーベン、フォスターやビートルズ、マイルス・デイビスやダニー・ハザウェイやキャロル・キングだってそうだと思う。それをたくさんの人たちがそれぞれの生活の中で聴く。古くはブルーズ、ジャズ、ニュー・オーリンズのセカンドラインから太平洋戦争での慰安歌やベトナム戦争でのドアーズ。日本では山下達郎のクリスマスソングが繰り返し流れる。その曲を聴いたときに何を感じるかなんて、それこそ大きなお世話だと思っている。
 僕は、「僕らの楽曲をどう感じるかは僕の口から放たれたとたんに違うものになる。それはあなたのイマジネーションのレベルが低いのであって、この会場の何人かは僕らの曲でそれぞれ何かを感じ、思っていると思う。」と言って場をシーンとさせた。それまでのくだらない質問はもとより、本当を言えばそのコンテストが、僕の知っているあるバンドの「箔づけ出来レース」だったことへの怒りが僕をキレさせたと思う。言い終わったとき、とーると大西が拍手をしたのがうれしかった。結局僕の想像通り、そのバンド(彼らは僕の地元出身のバンドだった)がグランプリとなり、ザ・バージルは落選した。
 怒りを胸にザ・バージルはライブ活動を続ける。
 89年の後半は、とーるの楽曲に加えてヒロナオが作った曲をレパートリーに入れ、バージルのソングライターは僕ひとりでないことを打ち出していく。当時ヒロナオがバージルのために書き下ろした曲“Happy Day”は、僕には反面教師のような曲で、最初の印象は「なんとややこしい曲なんだ。」という感じだった。しかしイントロからエンディングまで、曲の構成はかっちりしていて、僕の作る曲にない明るさがあった。
 90年当時僕がザ・バージルに求めていたものは、60年代のアメリカのバンド「ラヴィン・スプーンフル」であり「ラヴ」の現代版だった。イギリスのキンクスは大好きなバンドだったけど、僕の中では、本当のところはどこかつかみきれない音楽だった。ビートルズをやることはダメだけど、キンクスはOKみたいなところがあった。当時のライブでキンクスの「Tired For Waiting」や「Wateroo Sunset」を演奏しているが、そのメロディーにはどこか日本的な雰囲気がある。僕は日本を意識し始めていたのだと思う。
 『赤い丘のGINA』という曲がザ・バージルにはある。紛れもなく僕が作った曲だが、当時“蘇州夜曲”という服部良一の曲にかなりまいっていた記憶がある。日本でも中国でも欧米でもないが、すべての要素が詰まっている“歌もの”というところに非常に惹かれた。
 僕は生まれてから物心がつくまで、芸者の住む「色町」で育った。小さい頃初めて聴いた楽器は三味線で、歌は小唄か浄瑠璃。着物を着た芸者さんがむせるような匂いを漂わせて通り過ぎる界隈で過ごした。今でも演歌や歌謡曲がすんなり入ってくるのは、そういう体験が影響していると思う。同じように色町で大きくなった6才違いの姉は、僕に日本のロックを教えてくれた。
 姉は直接欧米のロックを聴いていたのではなかった。小学生から中学生の当時、僕はタイガースからPIGまでの沢田研二と前川清をメインに、郷ひろみからビージーズ(メロディー・フェアは姉のお気に入りで、日曜の朝によく流れていた)、ミッシェル・ポルナレフまでを間接的に聴いた。
 僕の音楽的なルーツはすべてそこにあると言ってもいいと、最近感じている。桑田佳祐が姉の影響をまともに受けているように、鈴木雅之が同じように、僕も年の離れた姉の聴いていた音楽にものすごくインスパイアされている。
 姉がビートルズフリーク(年代的に少しずれている)でなかったために、僕は日本のバンドを通して欧米のロックを知ることになる。姉は、いわゆるグループサウンズの末期にティーンエイジャーで、日劇ウエスタンカーニバルの最後期を見ている世代だ。グループサウンズの連中が欧米のロックをカバーするのを生のステージで見ている。日本の歌謡曲がどーっと押し寄せてくるのを姉はどう思ったのか。一方では、神田川をはじめとするフォークブームもあって、暗いなーと思いつつ、そういう世界(刹那的な4畳半的世界)もありかと思っていたはず。「東京に出て行くといろいろたいへんなんだぁ。」という感じだと思う。
 僕の音楽のルーツはとてつもなく日本的で場末な、歌謡曲なものだということに、1990年頃にすでに気がついていた。
 しかし、それを表現する場はザ・バージルなのか、そういう疑問を感じながら僕はバンドを続けていた。僕の思うバージルはアメリカのアセンズでデビューできるイギリスを通った黄色人種のバンドであるべきなのだ。プラス大西のザ・フーをはじめとする音楽的ルーツ、ヒロナオのビートルズの先の音楽、とーるがやりたい現在進行形UKロック(だったかどうかは知らないけど)。それらを満たすサウンドをバージルは追求している。だって一銭にもならないライブを続けていくのだ。自分たちの好きな音楽を演るのがアマチュアなのだ。
 コンテストに落ちてからのザ・バージルは、よりコンセプチュアルな動きをし始める。90年の年末恒例の地元ライブでアフロヘアのカツラをかぶって演奏している。これは僕にとって意味のあるライブで、いかに地元のライブハウスの恒例年末ライブが高い目標を目指すアマチュアバンドにとって「バカらしくも、出ないと寂しいライブ」であるかを表現したかったパフォーマンスだった。
 もうひとつ僕はこの日ジョイントした名古屋在住のR&B・ソウルバンドKASHIWAのパフォーマンスに実はまいっている。僕の音楽志向性にほんのちょっと「黒いシミ」が付いたが、それは後述する。
 91年3月には名古屋のハック・フィンに出演する。この頃はすでに、‘ザ・バージル・サウンド”のようなものが出来上がりつつあり、イギリスでもアメリカでも日本でもないロックが塊となって表れはじめている。僕は名古屋とはいえ、地元以外でライブが出来たこと、ハック・フィンのオーナーから好意的に受け入れられたことなどを素直に喜んでいた。当時、豊橋のライブハウスにはうんざりしていたのだ。箱バンをしているから「よろしくお願いしまーす。」みたいな、余計な芸能界っぽいへりくだった部分と、「あんたらは、なんにもしてくれない。」というパンクな部分が僕の中で同居していて、いつかぶちまけたいという思いがあった。
 名古屋でライブをすると僕は天狗になった。単純だが、ザ・バージルは豊橋以外でも通用すると
そう思えたのだ。実際その後すぐにやった名古屋のバンド、ザ・ショッカーズとのジョイントライブは、それまでのバージルのライブの中でもベストバウトとともいえるものだった。名古屋でプロとしてやってきたとーるがどう思っていたのかはわからないけど。
 1991年春からのザ・バージルは、アコーデオンやピアノをフィーチャーしたライブを行っていく。僕が90年からエレアコを使い始めたのは、ギターの音色を変えたかったのと、ビートルズが初期のレコーディングで必ずJ-45を使っていたことに影響されている。何曲かの間奏でハモニカを吹くようになったのもこの頃からで、刻むのではなくオルガンのような延ばせる音色が欲しかったからだ。僕は音楽的にあがき始めていたのかも知れない。
 僕はギターバンドの限界を自分なりに知っていたつもりだ。AメロからBメロへ、サビへ行って、間奏がギターソロ、Bメロからサビの繰り返しで終わり。多くのギターポップスがこの系統で作られていて、キーボード系や管楽器が加われば、バンドサウンド自体が変わる。良い悪いではない。僕のように歌謡曲ルーツの人間は、曲をギター1本で作るくせに、耳の中ではサックスやオルガン、シタールやラテンな打楽器、親指ピアノや、果てはスティールドラムまでが鳴っている。それをライブで表現することは不可能だ。でも“そういう感じ”だけは出したいと思う。人によっては、サンプリングしてライブで同期させてというやり方で表現するだろう。しかし、プロとは圧倒的に音楽を奏でている時間が少ないバンドテクニック、ソフトを含めた稚拙なDTMスキルなど、どうがんばっても楽屋落ちの域を超えられないと思っていたし、第一サンプリングなんかしたらライブの命であるノリが出せないのを怖がっていた。(ここがプロとの大きな違いだけど。ストーンズは出しちゃうもんね。)
 僕の表現スキルをカバーするために、いろいろと実験をしたというのが、アコーディオンやピアノのフィーチャーだったわけだ。ライブ演奏で、なんとなーく曲の雰囲気が変わるのを面白がっていたというのが本音で、実は全然ちがーう!と思いながら演っていた。その頃僕は、レコードとライブは同じでなくても良いと決めていて、ライブでやっていた曲をレコーディングした時には、エレピやドラムマシーンをオーバーダビングしていたのだが、レコーディングのミーティングで、「レゲェのダブなんて同じ曲をそん時のラリパッパでいじくってるだけじゃんか。」と息巻いて、音数的にどんどんエスカレートする僕の考えを、とーるが「あんまりやるとバンドが替わっちゃうよ。」と忠告したのを覚えている。その通りだ。
 僕の中で「ザ・バージル=自分のやりたい音」という図式が崩れ始めていた。バンドを試すように“オルタナティヴ・カントリー”と言われた『Mmmy Blue』という曲を発表したのもこの頃だし、『Callentina』というラテン歌謡(本当はブガルーにしたかったんだけど)の曲を、思いつきでブギーにしてしまったのも、そういう迷いからだったと思う。
 つまり僕は、自分の中からあふれ出てくる音楽を現場で演りたくなっていたのだ。それが表現しきれない。もどかしい。そういう状態で91年は終わっていく。
 もうひとつ、僕の中で90年末に見たKASHIWAの音が響き始めていた。
 1991年の11月に僕の大好きなエルビス・コステロが来日した。彼は89年にメイジャーのワーナーと契約していて、P・マッカートニーとの共作(彼は実はビートルズのファンクラブ員だったんだけど)を発表する。豊橋にも来たことがあるニュー・オーリンズのブラスバンドユニット、ダーティー・ダズン・ブラスバンドとの競演や、アラン・トゥーサン、気鋭のプロデューサー、アレンジャーのミッチェル・フルームといっしょに作曲したナンバーが出て、僕は「すごい」「うらやましい」を連発していた。そのときどきに引き連れるバンドの名前を変える、レコードによってクレジットを変える、発表するレーベルを変えるコステロのやり方に僕はだいぶやられていて、メジャーのアーティスト(この言葉は俗っぽくて、ホントは好きじゃないんだけど)は、好きなやつらといっしょにコラボ出来るんだ。それだけでもすげーと思った。憧れた。
 アマチュアバンドの活動は『手段』だと思う。その考えは年々強くなっている。表現者(アーティストという言葉よりよっぽど好き)としては、自分のその時でき得るかぎりのパフォーマンスでもって観客に何かを見せるのだが、僕はそれだけならバンドをやっていないだろうと思う。より多くの人に伝わる場”メディア”を僕は求める。ひとりより100人。武道館よりTBSザ・ベストテンだと思う。
 90年に僕とヒロナオは、前述のビートルズバンド、ザ・ラバーソウルで『イカすバンド天国』という深夜の名物番組に出演した。完湊し、ベストヴォーカル賞を貰ったが、翌週のバークレイでのレギュラーライブがものすごく印象に残っている。立ち見が出ているのだ。おそらく100人以上はいたと思う。それがその後1ヶ月以上続いた。テレビの力をまざまざと見た。かたや30枚そこそこのライブチケットを頼み込んで買って貰うアマチュア・オリジナルバンド。大きなものから結果を出した方が早いのだ。その時僕はすでに30才に近かった。日本ではまともにデビューなんてあり得ない年齢なのだ。
 そう気づいたとき、ザ・バージルは僕にとってどういうものなのか、わかった気がした。
 ここで、バージルのサウンドについての僕なりの見解を話そう。
 『Call My Name』という古い曲がある。僕なりの反戦歌で、銃社会にに対する警告をもとにしている。僕はスタイル・カウンシルみたいな、ブリティッシュだけどフレンチみたいなことがやりたくてメジャー7のボサノバでイントロを作った。ギターとボーカルのみのガイドテープを渡して、後はとーるが自由にいじくっていいよと言った。音合わせでせーのでやった時、イントロで僕は自分の楽曲のイメージが塗り替えられるのを感じた。とーるのベースランが、その曲の方向を決めたのだ。
 これがザ・バージルなんだと、今いさぎよく思う。極端に言えば「あ、とーるのベースで決まりじゃん。」みたいな。これが、バージルじゃんと。
 この思いは、実はずーっと封印してきた。僕はとーるという同い年のベースプレイヤー、いやミュージシャンと知り合って、ザ・バージルという化学反応を作ったんだと。CAMPFIREやザ・バージルは、とーるとのコラボレーション・ユニットだったんだと。もっと言えば、僕のオリジナルバンドではないと。誤解を恐れずに言えば。
 とーるは当時プロになることに否定的だったと記憶している。僕は音楽を職業にすることを欲していた。どんな形でもいい、自分の楽曲がちらっとブラウン管から流れるだけでもよかった。
もう、その頃には、ライブで全国回って動員を増やしていってなんて考えは捨てていた。
 その頃だったか、違う時だったか、僕ととーるはバンドの方向性について話したと思う。その年91年はザ・バージル解散の危機と僕は冗談めかして言っていた。ヒロナオがオーストラリアに行くと言ったからだ。
 91年12月16日。豊橋ときわのバークレイでヒロナオ壮行ライブが行われた。
 その時のビデオが現存するが、まったくバンド解散ライブそのもので笑える。バージルの名前の由来サンダーバードのビデオを流す、僕とヒロナオでマージービートを歌う。アンコールでは大西がヒロナオに捧げると言いながらオリジナル曲を演るなど、もう、後はないという感じなのだ。その時の段取りが今僕はどーしても思い出せないが、僕はバンドの解散ライブみたいなのは大嫌いなのだ。ましてデビューもしていない田舎のアマチュアバンドのメンバーが抜けるから来てね、みたいなことにだけはしたくなかったはず。でも結果的にそうなっていることがおかしい。
 92年からはバージルどうしようかという思いになった。ヒロナオが抜けたことで、僕らは同い年の3ピースになった。急に白髪が増えたような気がしたのを覚えている。 
 僕には引っかかっていたことがあった。R&B(リズム&ブルーズ)とかSOULという響きだ。もちろん僕にはそんな血は流れていない。黒人のやる音楽なんてまるでわからないし、大昔にアフリカから無理矢理連れてこられた人たちの悲しみや苦しみなんて知る由もない。でもソウルというジャンルの音が流れると身体が動いてしまうのはなぜ?古いフィルムで見たテンプテーションズのステップに鳥肌が立ってしまうのは?映画「BLUS BROTHERS」何回見ても飽きないのはどーして?さらにセルジオ・メンデスなんていうブラジルのバンドのリズム感が頭の中でぐるぐるする。アル・グリーンの声がバスドラが響く。トーキング・ヘッズって実はソウルじゃんとか。ユッスー・ンドゥールの声を出したいと思う。90年の年末に感じた黒いシミが広がってきたのがわかった。
 長い間の葛藤があったと思う。しかし基本的にリーダーの僕がやりたいことがその時のバンドサウンドなのだ。
 1992年3月8日。ザ・バージルは現役最後のライブを行う。僕の希望でエリック・クラプトンばりのギターを弾く河合氏をサポートメンバーとして招いた。
 その音は、限りなく黒いバージルだと今思う。古いR&Bのフレーズを使った焼き直しみたいなアレンジをしている。でも僕の曲とその古くさいビート感はなぜか融合しているのだ。百戦錬磨のとーるや西はMr.河合の黒っぽいリズム感に合わせたビートを出す。僕は気持ちよかった。身体の中心が揺れてくるようなうねりを体感したのだ。初めて自分がコステロになったような勘違いをした。高校生の頃映画館でルーカスのアメリカン・グラフィティーを見たとき、耳に残ったのは、黒人が歌う「Come Go With Me」や「Get A Job」だった。サントラ2で聴いた「Ain't That a Shame」「I Only Have Eyes for You」は僕がいつか演りたいリストに上がった。それらはいわゆる「真っ黒」ではない。ソウル側からポップス側に提案した音だ。そういう音に近づいたとそう思った。
 ライブ後Mr.河合からバージルへ参加はできないと言われた。僕は途方に暮れ、以来何もしなかった。
アマチュアバンドの解散なんてそんなものだ。ザ・バージルは簡単に終わった。
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